Kouen’s diary

何か言ってます

本を読んだ話

 私はあまり流行り物が好きではない。理由としては、流行り物の周囲にはやたらと話したがりの話下手が多く出現するからだ。そういった人間は大抵「へえ!君もこれ読んでるんだぁ!」から始まり、針でやわく突くようなチマチマとした話題提供の末に「けど私はこう思うんだよね」と聞いてもいない謎の持論を並べ立て勝手に満足して消える事が多いからだ。ゆえに私はブームが過ぎ去った頃に「そういえばこんなものも流行ったな」と思いながらそれを手に取る。それと同じ感覚でつい先日、太宰治の「人間失格」を読んだ。ブームが過ぎ去ったと感じたのは、周囲の人間が太宰治だの芥川龍之介だのと言わなくなった、数ヶ月前の事だった。私はこの本を手に取り、借用手続きを済ませ帰路についた辺りで、この本の話題が盛り上がり盛り下がりを繰り返した理由について考えていた。

 曰くこれは「サブカル連中の生態系によるものではないか」と。最初期は純粋に太宰治の作風を好いた人間や、そういう本を評論する人間たちがこれをいたく気に入り、もてはやした。しかし如何な名作も時が経てば次第に宣伝されなくなる。やがて著書者の名前ばかりが独り歩きし、こういう流行り物を嫌う連中、まあ言ってしまえば私みたいな思考をした連中に目をつけられたのではないか。「好きな小説作家は太宰治です」みたいな事を言いたいだけの、自分を他者とは違う、特殊な枠組みの人間だと思いたい連中がこの本を読み、それによって周囲の流行り物を好く人間が連鎖的にこの本を読む。そうして再び界隈が盛り上がった辺りでサブカル連中特有の、自分の推しているコンテンツが人気になったら途端に興味を無くす例のアレが発生し、ミーハーを尻目にサブカル連中は撤退。ミーハーは時間の経過と共に自然消滅し、またしても太宰治は次の世代にとってのサブカルアイテムとなる。そのようなサブカルとメイカルの連鎖があったのではないかと、私は思うのだ。

 つまり私は何世代目かのサブカルということになる。数多の先人たちが手に取り、手放したものを今になって拾う。拾った物を読み解く。そうしてなんとなく、人気の理由がわかった気がした。「この登場人物の感情は自分にしか理解できない」と思わせる力とでもいうのか。 

 例えば仄暗い嫉妬。いつだって自分は何者にもなれないが、自分と似たような環境に生まれながらも輝く者が居る。その一番星の様に輝く人を見て、憧れと同時に嫉妬を抱く。自分はきっと後ろを向いて歩き続けるしかないと思いながらも、それを認められない。そういう言語化しづらい感情も、反論や意見を言わぬ本と自分のサシなら時間をかけて思い返す事ができる。そしてやがて思うのだ。「これは自分だ」と。この登場人物の抱く感情は、まさしく自分だけが共有できる特殊なものなのだと。

 そんな事は決して無いというのに、その時ばかりは他者の言葉を鵜呑みにする。誰にだって人には見せない感情があることを忘れ、自分こそがより哲学的で思慮深い人間であると錯覚する。同時に、自分以外の人間は非常に薄っぺらいガワだけの存在なのだと思い込む。そしてのめり込む。最終的には「ヌルい生き方してる奴らにゃあわかんねえよ」とでも言いたげな顔をする。人、それをドヤ顔という。

 まあ要約するとだ。誰しもが抱くざっくりとした嫉妬や憧れの感情を文章に表し、上記の流れを作る巧みな文章構成が人気の理由の一つなのではないかということだ。

 

 

とここまで打ったが、急に眠くなったので私は寝る事にする。続きはまた今度、気が向いた時にでも。