「まあ、どうでもいいか」
今まで生きてきて、何度これらの言葉を吐いてきただろうか。多分数十やそこらではないだろう。私が小学二年か三年生くらいの頃から、ずっとお世話になっている言葉だ。
挨拶後の初ブログ更新は、この私公園がお世話になっている魔法の言葉と、それを習得した経緯を書いてみようと思う。
唐突だが、昔から私の周りでは人がよく死んでいた。というよりは、「死んだ事」を知る機会が多かったというべきか。最初に住んでいた場所が田舎で、特に市内町内での友好関係や縁を大事にするような世代の家庭に生まれたためか、両親や祖父母の親戚や友人が多く、私自身多くの年上に囲まれていた。
そしてこれまた唐突だが、片田舎の親戚に囲まれた場合、一番多く起こるイベントといえば葬式であると私は思う。まあ、それを抜きにしても私の周りでは人が多く死んだと思うが。
乳飲み子の頃母に抱かれたまま、ひい婆さんの葬式へ行き。幼稚園くらいの頃には両親の親友と母方の祖母。小学生の頃も引き続き親戚の血縁者やその友人、一応友人だったクラスメイトの男子、校長先生など、多くの人の死に見舞われてきた。病人の見舞いに行く側の人間だった私が、人の死に見舞われるというのもおかしな表現かもしれないが。
そんな風に、人の死が定期イベントと化した私は、人が死ぬことに慣れた。「人というか、まず生き物の時点で大体死ぬし、どうでもいいや」と思うようになったのだ。大して変わらない。人が死ぬのも、小屋の兎やニワトリが死ぬのも。ちなみにその慣れは、葬式場でも火葬場でも怒られ、頭をはたかれるという別の問題を生み出したりもした。
まあ、顔も知らない遠縁の子供が葬儀中にも関わらず母親のガラケーで聖剣伝説をやっていたら怒りもするだろう。とりあえず、これが私の「生物の死」に対する「どうでもいいか」の習得だ。
次は、別の事柄に対する「どうでもいいか」の話をしようと思うのだが、私は眠くなってしまった。なので私は寝ようと思う。
おやすみなさい。