Kouen’s diary

何か言ってます

自己分析とかの話と思考メモ

 最近、自己評価がやたらと低い人間をよく目にする。その人たちの多くは十分な功績を残していたり、人に褒められる要素が明確に示されているというのに、自分なんてまだまだだ、取り柄なんてなにもない。みんなは凄い、自分はみんなが羨ましい。そんな言葉を呪文の様に、呪詛の様に、ただひたすらに繰り返している。それがある種の自虐ネタなのか、それとも正当な自己評価なのか、私にはわからない。予想だけなら誰でも出来る。

過去に心理学などを真面目にやっていたこと、最終的に自己分析を始めたことが、感情をより明確化させようとするこの思考を得る原因となってしまったのだが、それはまた別の話だ。

 さて、どういうわけかは置いておき、今回は予想と感想と自分語りをまばらに書いていくことにする。

 私は、上記の人たち(以下、彼らと称する)の自己評価の低さ、または自分を過小評価する行いそのものが、彼らの拠り所なのではないかと考える。

自己分析、自己評価はどれだけフラットに自分を眺める事ができるかが鍵となってくるのだが、彼らは「評価されるはずのない自分が、愚図の自分がここまで出来たなら上出来」という思考によってその本質を捻じ曲げてしまっているのだ。つまりは褒めたいのだ、自分自身を。

こんなにダメでまだまだ至らないところばかりで、何の役にも立たないヤツが....と過小評価すればするほどに、ことを成した時の声援が気持ち良くなるのだろう。まぁ確かに、ダメなやつスタートで「おめでとう」と言われる方が、元より凄い人間と思われている状態で「おめでとう」と言われるよりかはマシなのかもしれない。

どちらも同じ「おめでとう」だが、前者には「よく頑張ったね」が付随している気分になる。つまりは頑張らないと戦えない、弱い人間だと思われることが他者の庇護欲に基づく応援を得やすいとどこかで分かっているのだ。もしくは、それを見て差を感じたことがあるのだろうか。

 余談として、主観により「この人間はこんなロジックなのだろうな」と予想した、いくつかの例を紹介しようと思う。種類としては三つで、自分に対して「何でもできる人間」というロールを強要している人間と、自己嫌悪に酔っている人間。そして、何かを信仰している人間だ。

 まず最初に、自らに対してロールを強要している人間についてだ。この手の人間はまず、前提のハードルがやたらと高い。例えば「この程度できなきゃいけないんだよ」などと言いながら人体の健康を維持できる範囲、つまり無茶を通せるギリギリのラインを大幅に超過した計画や目標を立て始める。どう考えても睡眠時間が足りないとか、休憩を一切取らないとか、あとは単純にタスクが多過ぎて時間が足りないとか、そういったものだ。(時折習得していないスキルをメインで使わないといけない事をやり始め自身を酷評するといった、眼高手低じみた事を始めることもある。)

もちろんそんな計画、自分以外に人員を増やしたり、人智を超えた能力でも持っていない限り達成できない。達成できたとしてもそれは大体「やった」だけで「成功」してない中途半端な結果を生む。睡眠不足による大小様々なミスに体調不良。長時間労働が生む思考の迷走。増やしに増やした大量のタスクに脳のリソースを割かれた結果起こる作業「深度」の不足等々、問題は増え続ける。

このような、側から見ればただ「めちゃくちゃな計画を立てた結果どれも微妙な出来で終わっている」というだけの事を本人は「自分の努力不足」と言い張るのだ。

ちなみに、こういった人間はそもそもの目的が「何かを成すこと」から「出来ない理由を作ること」にすり替わっていることが多い。この手合いの人間の大半は「出来なかった事への悲観」から「出来なかった理由」へ、そしてまた「出来なかったことへの悲観」といった感じに話がループし始める。いわゆる堂々巡りというヤツである。

 次に、自己嫌悪に酔っている人間について。何も出来ない自分を見て「惨めな存在」「哀れな存在」「救いようのない存在」と言い、それを更に自覚しているフリをする事で、まるで漫画やアニメのキャラクターのような気分になっている。

また、この手の人間は何かしらの「全員ができる事ではない事」にやたらと執着しがちだ。その執着はつまり「こんだけどうしようもないヤツだけど、これにかけてはすごい」という尖った性能のキャラクターになりきるための特徴付けだ。

こういった人間の目的の多くは「理想のキャラクター像を手に入れる事」だ。出来なかった自分を否定するロール強要タイプではなく、出来ない自分を知っているが、それを利用して何かしら「完全にダメじゃない自分」を作ろうとする。そして何故か「大体の事はこなせる」ようになる事を若干嫌がる傾向にある。これは汎用性を得たら「ダメなヤツ」という前提が覆ってしまうからだろうか。

 そして最後に、何かを信仰している人間。この手合いの人間は、信仰が強固であればあるほど厄介だ。意思決定の基準を信仰に委ね、思考を放棄する事が多いためである。自分の中の信仰を守るために前提や目的を都合よくすり替える。それ故に、どう説明されてもその理屈を「分かりたくない」と拒否してしまう。「分かりたくない」から「分からないのが正当な理由を探す事」を目的にする。つまるところ唐突に「結果」を捨て始めるのだ。とはいえ、こういった人間の理屈を論破するのは簡単だ。言い訳をする事が目的になった人間の理屈は、大抵わかりやすく破綻しているからだ。

しかし前述の通り、そういう人間はその信仰から出た言葉が「論破された」という状況を受け入れたくないという一心で反論をしてくるため、話が無限ループしやすい。そうすると「無理なので無理」というような循環論法を平然と使ってきたりと、とても厄介なことになる。そしてその結果、説明する側が根負けして説明を諦めるなどして「非学者論に負けず」を見事なまでに体現させるという、ある種のホラーめいた様相を呈する事となるのだ。

 とまあ、この様に私の中にある自己肯定感のやたら低い人間に対して思っている事、考えている事を書いていったのだが、余談と言いつつもかなり長くなり過ぎてしまった。おそらくはこれを投稿した後しばらく経って読み返し、文章の粗を見つけては苦虫を噛み潰したような顔で編集を加えるなどするのだと思う。テンションが変な方向に作用するとこんなものなのだ。

 長くなり過ぎた余談ついでに、先程から述べていた目的がどうの結果がどうのという部分の説明をしようと思う。正直な話、その説明を先にするか、その説明の部分だけを単体で出した方が収まりがいい気もするが、そこは置いておく。

 さて元より、何かしらを考える時に必要な基準とは「自分の目的は何」で「状況はどう」で、「何をして」、それにより「どういう結果を得れる」と考えているのかを明確にする事だ。多少何かを悩んでいたりする時、大体私はこの基準というものを考えてみる。行動を起こす時の基準も似たようなもので、まず「目的」を決め、現在の「状況」を把握し、そして把握した情報から求める「結果」を手に入れるための「手段」を講じるという単純なものだ。

例えば「コンビニに本を買いに来たが財布に金が入っていない事に気づいた。自分は慌てて店を出てATMに向かい、金を下ろしてきて本を買った」としよう。これを分析すると、自分の「目的」は「本を買う」事で「状況」は「財布に金が無い」。その状況を解決するための「手段」は「ATMで必要分の金を下ろし、本を買える状態にする」。これにより「本を買う」という「目的」を達成し「結果」を得た。

つまりはそれだけなのだ。誰もが行う生活の中で自然と起きる、当たり前過ぎてわざわざ明確化する気すら起きない単純な思考、つまりは基準だ。前述の人間は自身の中にある「歪んだ前提」のせいで、この基準というものを突っぱねてしまう。というかこの手順で説明し切れる「上述の人間」などというものが現れたなら、私はだいぶんおったまげると思う。流石に怖すぎる。

 とここまで打ったはいいものの、寝なければならない時間をゆうに超過しているので私はここで寝ようと思う。おやすみなさい。

思いつきの悪夢、または逃避

 ネットの妖精になりたい。

そう思ったのはいつからだったか。

 たいして、特別な理由も何もない。憧れを追っかけてきたとかそんなキラキラした動機なんてない。人として、というか一般人として生きる自信がないとか、単に興味のある事がそれ以外にないとか、そんなどこにでもある話だ。まぁ、情熱に欠けすぎて何か少しでもデメリットを発見すれば「じゃあいいや」と適当に羅列した夢候補を消し、最終的に「ふつうのひと」になることが夢ですとのたまったようなヤツが、何を今更といった感じではあるけども。

 それでも私はネットの妖精になりたい。そう思ってはいるものの、なるためにやったことは何だったか。

 私は年齢を偽って、変態気質の年上相手にテレクラ紛いのことをやっていたが、あの時はまだそんなこと思ってもいなかった。とりあえずで学生時代に喋り散らかすだけの配信を行いもしたが、アレは単に厨二病を拗らせていただけで、その時もまだ、ネットの妖精さんになりたいとは思っていなかった。

 ではいつだったろうか?結局それすら思い出せない。私はあまりにも怠惰に生きすぎた。好きなように生き、理不尽に死ぬ事。そんな生き方を望むくせに一丁前に夢を見ている。なんと愚かなことか。

 能力が足りないのは当然の話だ。なにせ私は、今まで努力なんてしてこなかった。今からだ。今から頑張る。なんてきっと嘘だ。私はどうせ頑張れない。何故なら頑張ったことなどないのに、頑張り方すらも知らないというのに、今更何をどう頑張るというのか。適当を言うのも大概にしろ。

 そういった弱音は常日頃から出てくるが、これは諦めではない。言ってしまえば、弱音とは自身の弱さを嘆く行為であり、それ故に自身の弱さを自覚することでもある。自分の弱点はどこであろうかと、探ることができるのだ。といっても、弱点を見つけるたびにそれを消化する時間が要る面倒な人間であるために、私は私を停滞させているのだが。

 さて打ちはしたものの、これはどう消化したものか。実はこの文章、打ったのがだいぶん昔であるが故、この文章の大半に一切の中身を感じていなかったりする。話の落とし所が思いつかないから適当に下書きにでも放り込んでおくかと適当に置いていたら、半年ほど経っていた。

 なんとも言えない空気感を生み出したところで、私は次の下書きの消化にでも移ろうと思う。

 ではまた今度。

思考メモ

なにやら最近、泣いている人間をよく見かける。それは姉だったり、知り合いだったり。

泣いている人間を見ても、大した感情は浮かばない。湧いてくるのは「お、泣いてるな」とか「ここからコンボ組んで来たりするのかな」とかのふざけた感想だけだ。

 私はあまり泣かない。何故泣かないのか、気にする事もない。答えはとうに分かりきっている。気持ち悪いと思うからだ。泣いている自分を、泣きそうになっている自分を客観的に見て、気持ち悪いと思う感情が一気に湧いて出るために、すぐに冷めてしまうのだ。悲しみや感動の涙と、それを伴う感情が。

気持ち悪いのだ。昔、姉の悪口を言った自分が。母の苦労も知らずに一人だけ世の中全ての不幸を背負ったかのように振る舞っていた自分が。塾の宿題を毎回の様にやらなかった自分が。すぐ泣いては喚いていた自分が。今になって感動して泣くなど、悲しくなって泣くなど。気持ちが悪くて仕方がないのだ。

この性分が原因で苦労したことはないが、面倒だと思ったことは幾らかあった。例えば親族の葬式で一切泣かずに中を見ていたら親戚に突っかかられたとか。と言っても祖父の死に関しては別に悲しいとは思わなかったのだが。ただ、上述の通り泣いている人間を見ても大した感情が湧かず、そういった人間を気遣う心が足りていないため、ロクなことは起きなかった。その時もずっと「そんなに悲しいなら悲しいで、そっちに集中してればいいのに」と思っていた。話は若干逸れるが、実際そうではないか。悲しくて泣いているのであれば、その悲しみに決着が着くまで、もしくは多少落ち着くまで泣いていればいいのだ。わざわざ泣いていないやつを糾弾するのは随分なお門違いというものだ。妙な理想を押し付けられても困る。

この現象、もしくは私に向けられた怒りの正体というか、その中に詰められたプロセスを私なりに解説するとだ。

「私(泣いている当人)にとって、この人は死んだら悲しくなって泣いてしまうほどの価値があった。→そんな人が亡くなってしまい泣いている。→しかしお前(私)は泣いていない。→価値ある人が死んだと言うのに何故泣かない。→お前にはこの人の価値が何故わからない→薄情者or価値に気付けない愚者め」といったところか。まことに押し付けがましいことだと私は思う。言ってしまえばそんなもの、自分の好きな漫画を人に薦めたが好反応を得られなかった時に、「ありえない、こんなに良い漫画なのに、ロマンを解せぬ奴め」と憤慨する厄介なオタクとどう違うのだ。泣いて他人を糾弾してどうなるというのか。

まあ、そういう人間を、死というジャンルのイナゴオタクめが、と思う私も随分な厄介オタクではあると思うが。

 

急に眠くなったので、続きはまた今度。

本を読んだ話

 私はあまり流行り物が好きではない。理由としては、流行り物の周囲にはやたらと話したがりの話下手が多く出現するからだ。そういった人間は大抵「へえ!君もこれ読んでるんだぁ!」から始まり、針でやわく突くようなチマチマとした話題提供の末に「けど私はこう思うんだよね」と聞いてもいない謎の持論を並べ立て勝手に満足して消える事が多いからだ。ゆえに私はブームが過ぎ去った頃に「そういえばこんなものも流行ったな」と思いながらそれを手に取る。それと同じ感覚でつい先日、太宰治の「人間失格」を読んだ。ブームが過ぎ去ったと感じたのは、周囲の人間が太宰治だの芥川龍之介だのと言わなくなった、数ヶ月前の事だった。私はこの本を手に取り、借用手続きを済ませ帰路についた辺りで、この本の話題が盛り上がり盛り下がりを繰り返した理由について考えていた。

 曰くこれは「サブカル連中の生態系によるものではないか」と。最初期は純粋に太宰治の作風を好いた人間や、そういう本を評論する人間たちがこれをいたく気に入り、もてはやした。しかし如何な名作も時が経てば次第に宣伝されなくなる。やがて著書者の名前ばかりが独り歩きし、こういう流行り物を嫌う連中、まあ言ってしまえば私みたいな思考をした連中に目をつけられたのではないか。「好きな小説作家は太宰治です」みたいな事を言いたいだけの、自分を他者とは違う、特殊な枠組みの人間だと思いたい連中がこの本を読み、それによって周囲の流行り物を好く人間が連鎖的にこの本を読む。そうして再び界隈が盛り上がった辺りでサブカル連中特有の、自分の推しているコンテンツが人気になったら途端に興味を無くす例のアレが発生し、ミーハーを尻目にサブカル連中は撤退。ミーハーは時間の経過と共に自然消滅し、またしても太宰治は次の世代にとってのサブカルアイテムとなる。そのようなサブカルとメイカルの連鎖があったのではないかと、私は思うのだ。

 つまり私は何世代目かのサブカルということになる。数多の先人たちが手に取り、手放したものを今になって拾う。拾った物を読み解く。そうしてなんとなく、人気の理由がわかった気がした。「この登場人物の感情は自分にしか理解できない」と思わせる力とでもいうのか。 

 例えば仄暗い嫉妬。いつだって自分は何者にもなれないが、自分と似たような環境に生まれながらも輝く者が居る。その一番星の様に輝く人を見て、憧れと同時に嫉妬を抱く。自分はきっと後ろを向いて歩き続けるしかないと思いながらも、それを認められない。そういう言語化しづらい感情も、反論や意見を言わぬ本と自分のサシなら時間をかけて思い返す事ができる。そしてやがて思うのだ。「これは自分だ」と。この登場人物の抱く感情は、まさしく自分だけが共有できる特殊なものなのだと。

 そんな事は決して無いというのに、その時ばかりは他者の言葉を鵜呑みにする。誰にだって人には見せない感情があることを忘れ、自分こそがより哲学的で思慮深い人間であると錯覚する。同時に、自分以外の人間は非常に薄っぺらいガワだけの存在なのだと思い込む。そしてのめり込む。最終的には「ヌルい生き方してる奴らにゃあわかんねえよ」とでも言いたげな顔をする。人、それをドヤ顔という。

 まあ要約するとだ。誰しもが抱くざっくりとした嫉妬や憧れの感情を文章に表し、上記の流れを作る巧みな文章構成が人気の理由の一つなのではないかということだ。

 

 

とここまで打ったが、急に眠くなったので私は寝る事にする。続きはまた今度、気が向いた時にでも。

最近の思考メモ

 

 最近になって、不安になる頻度が増えてきた。それは己の行く先であったり、交友関係であったりと様々だ。この不安は唐突に私の頭の中を支配する。魔法の言葉も意味を成さない。レベルが足りない。悲しみと聞かれればそうではない。全てが幼少期に見た暗い暗い海の底みたいに恐ろしく思える。怖い。拠り所を見つけると人間は急に脆くなる。愛した人すら居なくなってしまったこの世界で尚、生き永らえようとしてしまう。生きて行く事が怖い。知らない恐怖ばかりだ。

 とまあ箇条書きにすればこんなところか。上述の通り、私は定期的に不安定になる。私を悩ませる何もかもを投げ出して家を飛び出したくなるほどの焦りと不安の波。それを文字にする事で何かを成している気になって気を紛らわせているのだ。とりあえず書く。

 将来が不安だ。今働いている所が現在流行りの諸々によって消えてしまうのではないか?そうなれば私は終わる。マトモな職場に勤めた事がない。給料未払いや店長の夜逃げ等のふざけた理由で長続きしなかった。今勤めている所も継続して雇ってくれるかわからない。そもさん私自身が今の職場で働き続けられるかすら定かではない。何かしらあって今の職を失った場合、社会人としてズブの素人である私が他の仕事を見つけてまともに食っていける訳がない。それでは私の最後の砦である「友達」の権能を使う事ができない。あまりにも悲しい。過去を振り返るとしても真っ暗で、先を見るにも闇しかない。周囲皆全て闇なのだ。

 交友関係が不安だ。私はあまり不安定な状態の私を人に見せない。しかしその箍が今、極度の不安と恐怖により砕かれつつある。誰かしらに縋り付きたいとは思わないが、自分の弱さを共有できる人が欲しくなったのかもしれない。「自己完結する人」というのが、私という人間に対し他者が抱くイメージであり、実際そうであったが故に今こうして悩む事になっている。

 もっと手のかかる存在であれば良かったのかと思う時がある。誰かしらにお悩み相談をして一緒に悩んでもらって、そして仲良く大解決の大縁談。そんな事を繰り返す様な存在であれば、私の今はもう少し変わっていたのかもしれない。人を頼りにしたり、縋ったりするのが下手なのだ。

 続きを書こうにも眠くなってしまった。

 またこんど。

人の話を聞いた時の自分の思考メモ

 人の話を聞いた。自身の配偶者が死んだのがあまりに辛すぎて、何もしたくないし、何ならいっそのこともう死んでしまいたいのだという。その人は続けて言った。自分はこれからどうしたらいいんですかね、と。

 私はそういう話にめっぽう弱い。私は人の死や、それによって発生する自身の悲しみといった話題を、とうの昔に完結させてしまっている。させてしまっているが故に共感できない。いやむしろ共感されないと言った方がいいか。人は共感する時、自身と他者の考えを共有し、互いの妥協点を見つけ、譲り合うという三つの工程を踏む。私はこれの一つ目でつまづく。持論を展開する事はできるが、それを他者に理解してもらおうとしない。私は私の中で勝手に必要な言葉とそうでない言葉をより分けて行くので、貴方は勝手にしててください。としか考えられない。多少一般人のものまねで共感の工程を踏む事が出来ても、それは結局ものまねであって私の本質ではないので、深く話すとボロが出る。

 ものまねの共感が選択肢から消えた。こういう時に私独自の見解を述べると、大体相手に不快感を与えてお終いになる事は上記の通り知っている。相手は別に私の持論を聞きたいわけでも、ましてや私の過去を知りたい訳でもないのだから。ならば私は傍聴席の支配人を気取るしかない。どちらかと言うと、何の役にも立たないロジャーズ気取りの専門学生の方が近いか。

 考えなくたって分かる事だ。私の倫理観や死生観は語れば語るほど人を不快にさせる。そもさん私の持論を「まあそうだわな」と聞き流せる様な奴は私にそんな相談をすることは無いし、相談したとしても結局私の話など無視して自分なりの答えを勝手に見つけるだろう。ではアドバイスでもしてやるか?どうにも苦手な分野なのだけどね、こういうのは。

近況云々のはなし

3年の月日っていうのはそりゃあ長いもので、私は成人し、過去の投稿を見て当時の精神状況を思い返したり、自身の文章の稚拙さなどを見るのがたまの趣味になったりした。

 さて、そんな中でこのぬるま湯の地獄にも良い変化が現れた...!とはいかなかった。結局のところ私に起きたのは更なる死の応酬と絶望という、泣きっ面に蜂というか、泣きっ面に蹴りというか、そういうイベントだった訳だ。勿論良いこともあった。友人ではなく友達と呼べる人間とあっちゃこっちゃ遊び回ったり、こんな状況でも卒業は望み薄とはいえ可能性はあったり、あとは私の友達がネットの妖精さんに進化したとか。

 まあ結局それは刹那的な事象で、私の生きる糧ではあれど、私が生きるための武器ではない訳だ。友達から得られる賞賛や評価は、社会という、業務内容が被っているだけの他人で構成された世界では意味を成さない。私の持つ特技は、社会という、あまりに広大な倫理と道徳の海原を冒険するには波にもまれる藁より心許ないのだ。

 つまるところ、悲しい事だが、好きな事して生きていくだなどと言える人間は少ないのだ。それは私の様な「好きな事だが得意ではない」「好きな事ではないが得意」といったチグハグな部分が多い人間には土台無理な話であり、夢に見ることすら困難な話なのである。

 夢を見るのにも勇気が要る。夢を見るのにも資格が要る。偉い人はよく言うのだ。「環境のせいにするんじゃあない」「心持ちが大事だ」「挽回のチャンスは自分で作れる」のだ、と。

 過去の投稿にある「魔法の言葉」は、暴力と数多の死によってもたらされたものだ。人間という生物が他の『動物』と称される畜生に最も近い時分に刷り込まれた恐怖や諦めの感情は、そのまま習性へと変化し、私の特性になった。最早本能とさえ言えるそれはどうにも覆しがたいもので、それを軽視されると私は腹が立つ。だから私の交友関係は、私の過去を他者の過去と比べない人間だけしか居ないのだ。